日本プロレタリアートは連帯していたか(『新日本文学』2001年9月)

新日本文学会■ 第44回総会報告 「戦争と記憶」

※当記事は埼玉文学学校会員「林 浩治」氏よりご寄稿戴きました。

日本プロレタリアートは連帯していたか

林 浩治

昨年は花岡事件の歴史的和解が確定し、戦争と侵略・虐待の記憶が歴史に刻み込まれることになりました。会では、二〇〇〇年九月号に針生一郎と、『戦争と罪責』の著者である野田正彰との対談を掲載して以来、今回の総会、また夏の文学セミナーと引き続き、戦争と記憶の問題を考え続けていく訳です。

韓国には、日本帝国主義の支配下で、強力な暴力によって連行され、日本軍に従軍して性の売買を強制されたり、鉱山等での労働を強制された記憶を持つ方々がまだ生きていて、若い世代に伝えています。

振り返って日本を見れば、帝国主義時代の侵略の記憶は密封されつづけ、なかには日本が侵略支配した朝鮮や「満州」で生まれ育った記憶を、懐かしがる風潮さえあります。私の発表は、帝国主義宗主国国民と植民地人民の記憶の相違についてです。なかでも戦前の日本プロレタリアートにとっての「連帯」が、そのまま植民地支配された朝鮮人民においても連帯だったかどうか、という疑問についての考察です。

支配する側の国民は、たいていその優越感と無知から、植民地固有の文化の存在を認めず、支配したことによる影響を恩恵と思いこみます。

日本の文壇に朝鮮人作家張赫宙が登場したとき、木下杢太郎は〈自由の無い所には文芸は生じない。朝鮮の民には久しい間自由は束縛されてあつた。而して今ここに「ガルボウ」の如き好小説が出るようになつたのは、朝鮮が古昔に比して遥かに良好の文化的雰囲気の裡に生育しつつ有と云ふ証左として欣喜しなくてはならぬ。〉(「張赫宙のガルボウ」『文藝』一九三五年一月号)と書いています。張赫宙の日本文壇への登場は朝鮮の日本化の進み具合を象徴する事件でした。ところが、木下は日本帝国主義の支配が進んだ朝鮮を、自由だと言って憚ることがない。朝鮮に独自の文化があり、朝鮮語による文芸が発達していたことを、知ってか知らでか、全く無視している。こうした無知は木下だけにあったものではありません。ごくいちぶの柳宗悦のような人を除けば、一般に日本人はこの程度の観念しか持っていなかったのです。では、日本のプロレタリアートはどうだったか?

中野重治に「『雨の降る品川駅』とそのころ」(『三千里』一九七五年夏号)という短文があり、次のように言っています。

〈「日本プロレタリアートの後だて前だて」という行がありますが、ここは、「猫背」とはちがうものの、民族エゴイズムのしっぽのようなものを引きずっている感じがぬぐい切れません。〉

これは、戦前の革命運動に対する痛烈な批判であり、同時に日本の「良心的知識人」に対する批判でもありました。この問題提起を自分に突きつけられた批判として真摯に受けとめることなく、当時、中野は体が弱っていて白内障でもあったとかいうふうに、あまりにもローマンチックに解釈する人々がいますが、そういうのはあまり適当でない。

中野重治の詩「雨の降る品川駅」は、最初一九二九年『改造』二月号に発表されました。初出は伏せ字が多いのですが、同年五月発行の雑誌『無産者』第三巻一号に朝鮮語訳が載っていて、朝鮮史研究者の水野直樹が反訳して原形の再構成を試みています。(水野直樹「『雨の降る品川駅』の事実しらべ」『三千里』一九八〇年春号)

「雨の降る品川駅」原詩は、「髭 眼鏡 猫背の彼」という表現において、制度・機構としての天皇制をとらえずに、天皇の肉体的特徴をあげつらうにとどまっている点、また「天皇暗殺」を朝鮮人にそそのかすイメージにつながっている点、「日本プロレタリアートの後ろだて前だて」という表現が、違いを認めあう連帯ではなく、朝鮮人を取り込んで利用してきた日本の革命運動の欠陥と同じものをはらんでいる点などが、従来問題視されてきていて論争になっています。これには、最近、中野重治の会機関紙『梨の花通信』第三九号(二〇〇一年四月)において、満田郁夫が朝鮮語訳の全文を日本語に反訳する試みをして、反論しています。満田はこの朝鮮語の詩が優れていることを強調し、中野が朝鮮人活動家をテロリズムに利用しようとしたことはないし、日本革命の「前だて」「後だて」として引き回したのでもないと主張しています。

では中野が言った「民族エゴイズムのしっぽ」とはいったい何だったのでしょうか。「雨の降る品川駅」は戦後、発表時の伏せ字部分を起こしただけのものではなく、かなりの程度訂正を加えたものが、現在の形になっています。中野はなぜ訂正しているのでしょうか。そこには発表当時あってはならない、中野にとって間違った思想が反映されていたからに他ならないと思うのです。

「雨の降る品川駅」は、日本プロレタリアートと朝鮮プロレタリアートの連帯を歌った詩として、日本人、朝鮮人の両方に感動を以て受け入れられました。では、中野が言った「民族エゴイズム」とは何か? この場合「民族エゴイズムのしっぽ」という「しっぽ」とは、詩の改訂後のことで、原詩が民族エゴイズムを内包していて、改訂によって改めようとしたが、「しっぽを引きずっている感じがぬぐい切れ」ないというのです。したがって原詩には日本の「民族エゴイズム」が反映されているということです。

中野重治は、言わずと知れたプロレタリア文学運動の代表的な詩人のひとりであり、「雨の降る品川駅」はプロレタリア詩としてもっとも有名な作品です。そうした詩人の作品に反映された日本の革命運動の「民族エゴイズム」とはなんだったのか。

原詩には「――御大典記念に 李北満 金浩永におくる」という副題ないしは献辞がついていました。「御大典記念」とは、一九二八年一一月一〇日に挙行された裕仁天皇即位式のことですが、この式典に備えて大規模な政治弾圧が行われ、共産主義者や在日朝鮮人運動家の多くが検挙されたわけです。この弾圧は小林多喜二の『一九二八年三月一五日』で有名ですが、李北満や金浩永もこのとき被害を受けたのでしょう。この李北満と金浩永とはともに、日本において革命運動に参加した朝鮮人革命家です。李北満は自身も「追放」というエッセイを『戦旗』一九二八年九月号に発表しています。

李北満は、一九〇七年朝鮮忠清南道天安に生まれ、本名は李福萬です。彼は早稲田大学政経学部で学び、同じく東京留学生であった韓植・洪僥民・高景欽らとともに、一九二七年三月に第三戦線社を結成し機関誌『第三戦線』を発行しました。朝鮮におけるプロレタリア文学運動は、既に一九二五年にプロレタリア芸術同盟を結成していましたが、第三戦線社は結成の年の一〇月には、朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部へと発展的に解消しました。そして一一月、朝鮮プロレタリア芸術同盟は厳しい弾圧で朝鮮での発行が不可能だった朝鮮語の機関誌『芸術運動』を東京で創刊します。『芸術運動』は、いわば『第三戦線』の後継誌でもあったわけです。編集権発行人は金斗鎔で発行所は東京府下吉祥寺でした。二号まで発行されたらしいのですが二号はみつかっていません。創刊号には朴英煕、李北満、中野重治らの文を掲載していますので、日本の運動との密着が想像されます。

これが、いわゆる一九二七年のカップ再編成です。カップというのは、朝鮮プロレタリア芸術同盟のことです。在日朝鮮人文芸評論家の任展慧は、〈「カップ」の再編成は、マルクス主義文学運動の組織的純化であった。幅広い反日愛国の文学上の共同戦線から、マルクス主義的立場以外の文学者を排除した戦闘的な組織への建て直しが、この再編成であった。〉(任展慧『日本における朝鮮人の文学の歴史』P.158)と言っています。カップのマルクス主義的純化によって、朝鮮プロレタリア文学運動は、日本のプロレタリア運動の強い影響下に入ったと言えるでしょう。そのため、在日朝鮮人活動家たちは朝鮮プロレタリア芸術同盟の同盟員でありながら、日本のプロレタリア文学雑誌に日本語で書く機会が多くなり、朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部とソウル本部は対立するようになります。東京支部の傾向は福本イズムと無関係ではなかったでしょうし、朝鮮の現実と直接向き合うことはできなかったのだと思われます。

一九二九年五月、在東京の若い朝鮮人大学生や若いインテリが結集し、無産者社が結成されます。この中に、金斗鎔・李北満・成耆伯・林和・金南天・韓載徳・安漠・金三奎らがいました。同年十一月十七日、カップ東京支部は解散声明をだし、無産者社に合流します。「雨の降る品川駅」の朝鮮語訳が掲載されたのは、この無産者社の機関誌『無産者』一九二九年五月号でした。

任展慧は『日本における朝鮮人の文学の歴史』一六四頁でこう書いています。〈ただ、「カップ」東京支部の結成から解体、そして「無産者社」の創立、という一九二七年から一九三〇年にかけて、日本における朝鮮人文学者になかからは、これという創作は発表されていない。それに比べて、朝鮮では韓雪野の『過渡期』『相撲』、趙明煕の『洛東江』、李箕永の『元甫』、宋影の『交代時閒』など、朝鮮人民の深い関わりのもとに、祖国解放のためのさまざまなたたかいをリアルに描いた「カップ」文学の優れた達成を示す作品が、相ついで発表されている。〉

つまり朝鮮では非常な弾圧下にあって、優れた文学作品が発表されていったのに、日本の運動の傘下に入った在日する朝鮮人活動家たちの中からは殆どこれといった文学作品が生まれなかったというのが歴史的実体だったということです。朝鮮における文学運動の実体を正確に把握できないまま、在日する朝鮮人活動家たちは、中野重治たち日本のプロレタリア文学運動に合流していったのです。

そしてついに、一九三一年八月、無産者社は高景欽・金三奎らが検挙され解散。在日朝鮮人の文学組織は弾圧され、維持が不可能だったため、日本人組織との統合がはかられます。十一月には、旧「朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)」東京支部、旧「無産者社」、「東京朝鮮プロレタリア演劇研究会」の人々(金斗鎔・李北満・李燦・朴亥剣・金宝鉉)によって、同志社が結成され、運動の足場が日本ということになりました。

翌、一九三二年二月には、日本プロレタリア文化連盟(通称コップ)内に「朝鮮協議会」が設置され、同志社は解体し、朝鮮プロレタリア芸術運動はコップに吸収されてしまいます。

これが、日本プロレタリア文化運動が、朝鮮プロレタリア文化運動を引きずりまわした実体です。中野重治が自己批判した「民族エゴイズム」とは、こういった環境を反映しているわけです。朝鮮で反日運動を闘った人たちから見れば、日本のプロレタリア文学運動に従属した朝鮮人日本語活動家たちは、「左翼親日派」にすぎないのではないでしょうか。「親日派」というのは日本に協力した人々、朝鮮の日本化に手を貸した人々のことで、韓国では民族反逆者を意味します。

しかし「民族エゴイズム」は文学運動においてだけではありません。

「雨の降る品川駅」の献辞に記されたもう一人の朝鮮人、金浩永も在日する活動家でした。この人は在日本朝鮮労働総同盟中央委員、日本労働組合全国協議会朝鮮人委員会幹部を務めたひとです。

ざっと当時の在日朝鮮人をめぐる労働運動の路線闘争について説明しなければなりません。在日朝鮮人労働運動を日本の労働運動に全面的に埋没させる重要方針が決定されたのは、一九二八年三月から四月にかけてモスクワで開かれたプロフィンテルン第四回大会決定においてでした。この大会で、資本主義諸国における外国人労働者および植民地労働者は現住国の労働組合に加入してたたかうべきだとのテーゼが採択され、大会終了後に開かれた日本問題小委員会で在日本朝鮮労働総同盟と日本労働組合全国協議会(全協)との合同(実際は全協への解消)が決定されたのです。在日本朝鮮労働総同盟内部では支持グループと反対グループが対立しました。金浩永・金斗鎔らは積極支持論者でした。金斗鎔は『在日朝鮮人労働運動いかに展開すべきか』というパンフをだし、金浩永は『在日朝鮮労総の当面の問題にかんする意見書』をだし、全協への解消を指示しています。

それに対して大阪朝鮮労働組合幹部の金文準ら民族意識のつよい共産主義者たちは民族解放闘争の放棄に反対しました。金浩永らは一九三〇年一月から二月にかけて、「スパイ社会主義投降主義者金文準一派の正体」などの檄文を発行して、金文準らをスパイ扱いして攻撃しました。そして金文準や趙夢九らや彼等を支持する活動家を排除したわけです。金文準はその後も、朝鮮語の『民衆新聞』を発行したり、東亜通航組合をつくって労働者の船を運航したりして根強く民族解放運動をつづけたのですが、投獄され病気保釈中に死亡しました。この東亞通航組合については梁石日の小説『血と骨』にも出てきます。

高峻石の『コミンテルンと朝鮮共産党』(社会評論社 一九八三年二月)には次のように書かれています。

〈金斗鎔・金浩永らは、全協幹部と協議し在日本朝鮮労働総同盟傘下の組合にたいして全協傘下組合への加盟を指示し、一九三〇年一月には在日本朝鮮労働総同盟中央常任委員会を全協朝鮮人委員会に改称し、……それ以降は、全協朝鮮人委員会の手で個々の傘下団体の解体、全協傘下団体への加入が促進されるようになった。……

しかし、これら朝鮮労働組合の盟員全員がそのままそっくり全協傘下の同盟に加入したわけではない。むしろ、再編されたのはごく少数であった。このことは、一九二九年十二月末現在の在日本朝鮮労働総同盟の盟員数は二万三五三〇名であったのに、一九三〇年十月末までに全協に再組織された者はわずか二六六三名にすぎなかった事実をみても分かるのである。これは、在日本朝鮮労働総同盟の中央幹部や各地方の朝鮮労働組合幹部が全協への加盟に熱心であったのに反して、大衆は全協への加盟に民族的抵抗があったことを示すものであった。……

全協組織内における朝鮮人の地位と役割は、加盟当初は下部組織に所属し行動体に編成されて文書配布、街頭レポなどに動員された。〉(p.75~77)

日本共産党指導部は、思惑通りには朝鮮人を組織することはできなかったようですが、それにしても大きな戦力だったようです。立命館大学の文京洙によると、一九三二年から四年にかけての治安維持法検挙者は、朝鮮人が三〇四四人で全体の九・八%だそうです。大阪では二八・六%とさらに高くなります。戦前の共産党最盛期に党員数の一割を朝鮮人が占めていたことになります。(文京洙「戦後日本社会と在日朝鮮人③」『ほるもん文化』9所収)

そして、中野重治が「雨の降る品川駅」の原詩にあげた二人、李北満と金浩永そして中野らと同志として親しい立場にいた金斗鎔らは、民族解放を第一の課題として掲げて闘った在日朝鮮人の仲間を裏切ってこれを弾圧する立場にあったということは、押さえておかなければならないと思います。「雨の降る品川駅」で連帯を歌われた相手は、民族解放路線をとらず日本革命の後盾前盾として闘った一部の朝鮮人たちでした。

ちなみに李北満は、太平洋戦争下には青島など中国に、解放後一九四六年二月にはソウルに帰り、一九四七年再び渡日したことがあるようです。朝鮮史の著述や、五三年頃南北統一促進会議で活躍したことがあり、一九五九年に亡くなったとされてます。

また金浩永は、一九三六年頃、神田駿河台下で印刷所を自営し、金龍済の『大陸詩集』の組み版を始めたことがあるとも言われています。金浩永自身の書いたものとしては、「大塚君の死の前後」(『戦旗』一九二八年八月)、「東京で活躍している半島の人々へ」(『モダン日本(朝鮮版)』一九四〇年八月)などが知られています。

さて、かれら「日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾」として闘った朝鮮人革命家たちの中に、詩人金龍済がいました。金龍済こそ、日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾として、天皇制権力ともっとも果敢に戦い、非転向を貫いたまま朝鮮へ追放された、輝けるプロレタリア戦士であり、詩人でした。

金龍済は、一九二七年十八歳のときに渡日し、新聞配達・牛乳配達などで働きながら、二十一歳のとき左翼文壇にデビューし、プロレタリア詩人会のもっとも若い会員として参加し、詩誌『プロレタリア詩』に詩を掲載するようになりました。同時にストライキを指導して拘束されるなど、政治闘争も盛んに行っていました。やがて彼は、作家同盟事務長また、日本共産主義青年同盟員となり、小林多喜二や宮本顕治のレポ係を務めるようになりました。共青には詩人伊藤信吉の推薦で加盟しています。一九三二年五月、コップ・作同の一斉検挙(治安維持法)で検挙されると、一九三六年三月までの四年近くを、非転向で貫き、出所した金が驚いたのは、彼が獄に繋がれている間に日本人同志の殆どが転向していたことでした。一九三六年十一月、朝鮮芸術座事件に連座して検挙。一九三七年七月、強制送還されました。その後「転向」して軍国主義詩人として文章を書きました。解放後は作家としてはあまり恵まれなかったようです。

もう一人、日本共産党指導下の日本プロレタリア文学運動の日本語詩人として白鐵がいました。白鐵は、一九〇八年生れで、『地上楽園』『プロレタリア』『プロレタリア詩人』などに詩を書きましたが、後にはやはり皇国作家として活動します。解放後は、文芸評論家として名を為し中央大教授や国際ペンクラブ韓国本部委員長を務め、一九八五年に死亡しました。金龍済や白鐵などは、日本プロレタリア文学史に残る詩人ではありましたが、彼らを朝鮮文学史上のプロレタリア詩人と呼ぶのは困難でしょう。彼らをして「朝鮮の同志」と規定することは帝国主義宗主国プロレタリアートの我田引水的傲慢と言えましょう。

日本の共産主義運動と、日本共産党の指導下にあったプロレタリア文学運動は、植民地朝鮮の民族主義的傾向には否定的でした。日本プロレタリアートは、朝鮮の運動を日本の運動の前後に盾のように配置して、本来日本人自らが戦わなければならない天皇制権力との闘争の最前線に、朝鮮人を押し出していました。まさに、天皇の問題を朝鮮人に負わせようとした官僚的で、日本中心主義的発想に他なりません。

こうした日本「民族エゴイズム」のしっぽは、戦後までも引きずられたわけですが、この点については『新日本文学』五月号に「『民族エゴイズムのしっぽ』を断ち切って」と題して書いています。

最後に結論めいたことを言うとすると、一方への従属を前提とした連帯は連帯ではない、ということです。

【参考書】
金允植/大村益夫訳『傷痕と克服』」 朝日新聞社 一九七五年七月
林鐘国/大村益夫訳『親日文学論』 一九七六年十二月
金三奎「個人史の中の朝鮮と日本」 『朝鮮と日本のあいだ』朝日新聞出版部 一九八〇年五月
任展慧『日本における朝鮮人の文学の歴史』 法政大学出版部 一九九四年一月
満田郁夫他『梨の花通信』第三十九号 二〇〇一年四月
大村益夫『愛する大陸よ』 大和書房 一九九二年三月
金龍済「幻像」 『子午線』6号 一九九三年八月
高峻石『日本の侵略と民族解放闘争』 一九八三年一月
高峻石『コミンテルンと朝鮮共産党』 一九八三年二月
高峻石編著『朝鮮革命テーゼ』 一九七九年九月

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